東日本大震災から6年の節目に

東日本大震災から6年が経ちました。
この節目という機会に
今一度氣持ちを新たに
心のままをブログに書きたいと思い
ました。


わたしは東日本大震災原発事故以後の約3年間

子どもに食べさせるものに悩み
怖くて怖くて


地元や福島県の作物は食べることはできませんでした。


外食も食材の産地が分かるものでなければ行くことはできませんでした。


そして毎晩子どもの寝顔を見ながら涙がでたり

放射性物質を何とかしようと働きかけている団体の集まりに


何も分からずに行き、ただただ話を聞いて帰ってくる事もしばしばありました。


知識のある方の講演会など
色々な所にも足を運びました。


もともと人付き合いが上手い方ではなく人見知りなので


わきあいあいとしている団体の集まりに行っても


あまり話を自信持ってするような性格ではないので


1人浮いた感じで
周りの人の話に合わせたり
ただ笑って聞いている事ばかりが多かったように思います。


でも、どんな食材を選んでいるのか
どこから買えるのか
放射性物質はどこに移動しているのか
色々な事を聞く事ができました。


原発事故の頃は娘は10ヶ月。
活発な娘を連れて話し合いの場に行ったり


放射性物質の不安から外遊びも極力我慢させてしまう事が多くありました。


その事から今でも娘には感謝とごめんねの氣持ちがわたしの中にはたくさんあります。


幼稚園を選ぶ時も同じでした。


わたしの嫁いだ家は檀家のお寺が幼稚園をしているのでそこに入れる事が常でした。


しかし、わたしは給食のメニューをお弁当に作り持たせていました。


途中、どうしても幼稚園の先生方を信じる事ができず、


今時の幼稚園の方針に子どもを委ねる事ができずに転園を考えた事もありました。


シュタイナー教育を取り入れいて食事やおやつも全て手作りで放射性物質にも氣をかけてくれる幼稚園にわたしは転園を考えていました。


主人はやりたいようにやればいいよと見守ってくれていました。


しかし意志の強い娘はわたしにいつもブレーキをかけてくれる存在であり


転園はしたくないとはっきりとわたしに言ってきました。3歳の頃です。


幼稚園に入る事も娘は2歳の終わりに自分で決めて、わたしに言う子どもでした。


好奇心が旺盛で体力も運動能力もある娘は母子の生活に物足りなさを感じていました。


何も分からずに婆ちゃんや従姉妹から幼稚園は楽しいから入りなさいと言う話を聞いてきて、わたしに入りたいと言ってきた娘です。


その度に面白くない顔をわたしはたくさん娘には向けてしまったと思っています。


子どもはお母さんが恋しくて離れたくない存在だという自分の思い込みからかけ離れた自分の娘とのギャップを受け入れる事ができてなかったんです。


それに食べ物を氣にするあまり、この食べ物はダメだとか


この食べ物はとても高価で遠くから買ってきたから大切に食べなさいとか


笑顔でみんなでただただ「美味しいね〜」と食べるはずの食卓が


毎回ピリピリとした雰囲気で夫と娘は過ごしていたのではないかと思います。

買い物に割く時間もかなり長く
欲しい食材を買うのに半日車でドライブをして時間を費やしたりする事もたくさんありました。


娘の意向で幼稚園に入ってからは
ピリピリしていたわたしですが


結果的には地元のママさんたちと顔見知りになり


幼稚園バレー部や役員などをする事で地元のママさんたちとの交流が増えて


そのおかげで都会から来たわたしはこの町に馴染むきっかけができたのでした。



この土地に骨を埋める氣持ちで結婚をして来たにもかかわらず


この土地に馴染むどころか
この町を出ることしか考えられなかったように思います。


今までの経験とこれからの自分の事を日記がわりに綴っていきたいと思います。